東京の順天堂大学の前身とも言われる千葉県佐倉にあった「佐倉順天堂」。

 「佐倉順天堂」を開いたのは佐藤泰然という人で、その息子・佐藤尚中が東京でその「佐倉順天堂」の意思を継ぎ開いたのが、現在の順天堂大学です。

 こちらの「佐倉順天堂」は西洋医学をいち早く体系的に本格的に押し進めた病院兼学校です。そのため、当時は幕末に行くにつれ、広い範囲で「佐倉順天堂」の名前が知れ渡り、西洋医学といったら「佐倉順天堂」でした。少し前に流行った現代の医者が幕末にタイムワープした漫画『仁-JIN-』の主人公が開いていた仁友堂のモデルも「佐倉順天堂」なようです。

 当時は現在よりも家柄を大切にした時代で、「佐倉順天堂」という名声の高い塾を開いた佐藤泰然ともなれば、多くの幕末の西洋医学を主導した人たちが子孫として受け継いでいっています。

 幕末の西洋医学が種痘を始めとして普及し始めた流れ、更には海軍の関係で長崎に本格的なオランダ医ポンぺが招かれて先進的な西洋学が教育された流れ、またオランダ語よりも英語が主流と世界ではなっていてヘボンが『和英辞典』を完成させた流れ、戊辰戦争・西南戦争によって軍医の組織が確立されいった流れ、更には本場ドイツに多くの人が留学して最先端の医学を学んでいく流れ、などなど日本の幕末の西洋医学の流れと共に、佐藤泰然とその子孫は活躍しています。

 ですので、「佐倉順天堂」を開いた佐藤泰然から子孫について語ることによって、幕末の西洋医学の流れ語ることになり、今回はその流れを読んでいきたいと思います。

■1.堀田正睦の藩政改革■

≪堀田正睦、天保の改革・佐倉藩での蘭学の推奨・開国通商派から阿部正弘により推挙されハリスと日米修好通商条約について本格的に話し合う≫

そもそも佐倉順天堂とは、後に1858年の日米通商修好条約をハリスと締結寸前まで話を持っていく(調印自体は井伊直弼)人になる佐倉藩5代目藩主・堀田正睦によって佐藤泰然が招聘されることによって出来上ったものです。

堀田正睦は

 1810年に生まれ、1824年に佐倉5代藩主になるものの藩政を牛耳る老臣・金井右膳によりなかなか藩政の中心に立てず、1833年に金井の死去により佐倉の藩政改革を進めます。

 正睦は江戸の老中首座・水野忠邦が推し進めていた「天保の改革」に1841~3年の間、老中に任命され参加するのですが、性格としてはその「天保の改革」に影響を受けた、学問や武芸の振興を一つの指針としたようです。もっとも正睦は水野忠邦がすすめる天保の改革のやり方には意見が合わず、老中をやめて幕府の政治から手を引き、佐倉藩の藩政改革に再び専念しています。その後、幕府の老中首座の阿部正弘に抜擢され1855年安政の大地震などにより人材が不足した関係もあり再び正睦が老中に就任し、後には老中首座になり、ハリスと日米通商修好条約の話し合いを進めることになります。

 つまり、1833~1841年、1843年から1855年に行った藩政改革により学問や武芸なども強化され、学問の最先端ともいえる「蘭学」を本格的に初めて導入した流れの中に、佐藤泰然が佐倉藩に登場するのです。

■2.佐藤泰然と幕末西洋医学の始まりと種痘■

佐藤泰然は1804年に生まれ、1835年長崎に遊学しオランダ商館長ニーマンから西洋医学を学んでいました(緒方洪庵も1836年にニーマンから医学を学び開業しています)。その後、1838年江戸で蘭学塾「和田塾」を開き大変評判が良く、堀田正睦の目にとまりました。

 佐藤泰然自身も堀田正睦の確かな蘭学に対する知識や人柄に魅かれ、1843年(正睦が天保の改革の後、再び藩政に取り組み始めた時期)招聘を受けオランダ医学書を基礎とした「佐倉順天堂」という塾を成田街道のある佐倉の本町に開きました。最もそのときは藩医としてではなく、開業医だったようです。

 そして1847年には息子の後に長崎のポンぺの元で最先端の西洋医学を学び活躍していくことになる良順(1832年生まれ、後に松本家に養子にやるため姓名「松本」になる)が「佐倉順天堂」で働き始めます。その翌年の1848年には「佐倉に順天堂あり」と言われる程有名になっていたようです。

 そして「佐倉順天堂」の名声と共に息子にもよりよく活躍してもらいたいと思い1849年良順を松本家へ養子にやります。

 幕末の西洋医学始まりとして、天然痘を防ぐための「種痘」の普及活動が大きなトピックスとしてあります。1849年に長崎のオランダ商館から「種痘(牛痘)」が入ってきたことが一つの大きな流れとしてありますが(緒方洪庵はこれにより「種痘館」を開いています)結果的にはその「種痘」はあまり普及しませんでしたが)、佐藤泰然はそれよりも早く「人痘」による「種痘」を行ったようです。

 また1851年には日本で最初の膀胱穿刺の手術を行い、成功した例もあったようです。

1853年ペリー来航の年、「佐倉順天堂」の優秀な生徒だった山口舜海を養子として受け入れ、佐藤尚中と改名。

 更には「佐倉順天堂」の功績が認められ佐藤泰然は藩医になります。

 これにより、「佐倉順天堂」の名を広めた佐藤泰然は次世代の育成に取り組み始めます。

■3.佐藤尚中と松本良順:長崎海軍伝習所■

 佐藤尚中は、1827年に生まれ、「佐倉順天堂」の優秀な生徒であったため、佐藤泰然に養子としてもらわれます。

 そんな佐藤尚中は、「佐倉順天堂」で学んでいく内に、長崎に海軍の関係で本格的な西洋学の教授にきたポンぺが来日している事を聞き、本格的にポンペから学びたいと思い、佐藤泰然に長崎の許可を願い出ます。しかし、佐藤泰然は最初は「佐倉順天堂」の学びでよく、留学には否定的だったようですが、尚中の熱い思いにより許可します。

 1860年長崎へ行き、ポンペのもとに留学に行きます。同じ「佐倉順天堂」門下生の佐々木東洋も同行しました(彼の後1878年脚気治療研究病院の西洋責任者となる)。

 留学先には、佐藤泰然の息子で松本家へ養子に行った松本良順がいました。松本良順は1857年ポンペが長崎で教え始めた初期の頃からの生徒でした。

 またポンペは長崎海軍伝習所という西洋の海軍を幕府が導入するための教育期間でしたが、1860年に築地に移転しています。ポンペは伝習所閉鎖後も少しの期間教えたらしいですが、尚中はかなり最後の方の生徒になるといえるでしょう。

 1861年には尚中はドイツの結核治療書を翻訳し、佐倉に戻る際ポンペからは医学が英仏からドイツへパラダイムシフトしたきっかえとなった「ストロマイエル氏」の外科書をもらい、佐倉で尚中は藩医制改革を行い「ストロマイエル氏」の外科書やポンペが行っていた病棟の先進的なシステムの導入を図り、佐倉藩は西洋流に本格的に(東洋流ぶ対して)一本化していきます。

 松本良順は、長崎伝習所後、東大医学部の前身ともなる西洋医学所(1858年手塚治虫の祖先が手塚良庵を中心に設立)の頭取に1863年になります。また幕府の奧医師にもなります。

 1862年長崎伝種所での学び後尚中が帰国してきたため、佐藤泰然は「佐倉順天堂」を尚中にに任せ、横浜で暮らすことにします。

 「佐倉順天堂」は更に佐倉藩の主軸となり、西洋流を推し進め門下生を募り、その中に森鷗外の父もいました(森鷗外は1862年に生まれています)。

■4.林董:ヘボン-渡英-戊辰戦争■

 1862年横浜に移り住んだ佐藤泰然は息子で林家に養子にしていた董(1850年生まれ)を横浜に呼び寄せヘボン塾に通わせました。その5年位後に高橋是清もヘボン塾に通っています。

 そこで董は、英語を習得し、1866年イギリス留学に行くことになります。この時期は福沢諭吉が参加した1860年遣米使節と1861年の遣欧使節を経た後の時期で、幕府や藩の命で海外に留学するものも多くなっていました。高橋是清も1867年アメリに、渋沢栄一も1867年ヨーロッパに留学しています。

 その後1868年戊辰戦争の関係で送金が途絶え、帰国し軍医として戊辰戦争に参加します。

 戊辰戦争においては「佐倉順天堂」は官軍側につきます。一方、奥医師までなった松本良順や幕府によってイギリスに留学していた董は幕府軍側につき、董と良順は仙台で合流し、榎本武揚らとともに五稜郭で戦っています(良順は仙台で降伏)。

■5.戊辰戦争後■

 戊辰戦争後は、官軍側についた「佐倉順天堂」は優遇され、1869年尚中は大学東校を主宰し、大学東校は「佐倉順天堂」勢力が多くを占めます。

 しかし、尚中は「佐倉順天堂」のDNAを引く学校を作りたいと考えていて、現在の順天堂大学を東京に作ります。

 良順は赦免され、山縣有朋らの勧めで兵部省へ出仕し、1873年陸軍初代軍医総監になります。

 佐藤泰然は残念ながら1872年に亡くなっています。

 董は、岩倉遣欧使節団に同行します。その際、元佐倉藩士の農学者が父である津田梅子もいました。津田梅子の父は1852~55年に佐倉藩校で学んでいるため、堀田正睦が安倍正弘の元で老中になる前の時期になります。

■6.佐藤進■

 佐藤泰然の跡継ぎ・佐藤尚中に養子にもらわれた佐藤進は1845年に生まれました。おそらく、尚中は佐藤進の才能を見抜き、「順天堂」の跡継ぎとして育てようと考え、1869年明治維新後佐藤尚中は大学東校の主宰となるものの、佐藤進には本場ドイツに留学させています。

 佐藤進はドイツに留学しベルリン大学に通い、期待通り1874年に医学博士を取ります。日本人初の快挙だったので、ドイツ新聞でも佐藤進が医学博士取得したことが記事になったほどです。また、ベルリン大学を通いだしたころ1870年にナポレオン3世とビスマルクの戦争、普仏戦争が起こり、佐藤進は本格的なヨーロッパの戦場での医療を学ぶまたとない機会と思い、軍医として従軍を申し出ています(幕末から戦場における医療活動も関心がもたれ多くのヨーロッパの本が翻訳されていたりもした)が許可が出ず、ベルリンに運び込まれた負傷兵の治療にあたっています。このとき赤十字社が負傷したもの敵味方関係なく奉仕していた姿に感動を受けています。

 医学博士の報を受けてか父・佐藤尚中は佐藤進が戻ってきて、自由に「順天堂」を運営できるよう手狭になっていた下谷から湯島に移動しています。

 一方、佐藤進は更に向上を望みウィーン大学に(この時佐藤進と接点はないがジグムント・フロイトも学生として大学にいたはずである)通いますが、佐藤尚中が病気になった関係で1877年帰国することにします。

 佐藤尚中は無事回復しますが、1877年に佐藤進が帰国した関係で、その直後西南戦争が起こり、西南戦争に軍医として参加するチャンスが訪れます。西南戦争では、竿つ尚中は大阪陸軍臨時病院長として活躍し、佐藤進は叔父にあたる総監である松本良順(一時総監がの現役を退いていたがこのとき復帰)の元で働きます。

 その後、佐藤進は順天堂の尚中の跡継ぎとして運営を立派にこなすと共に、1884年には東大医学部で講義をし、1889年には大隈重信首相が条約改正のために外国人判事の承諾を強引に押し進めた関係で爆撃された事件で大隈重信首相の右足切断手術を行っています。更には日清戦争後の山口県下関で結ばれることになった下関条約の際、清国側の代表・李鴻章が暗殺未遂にあい、その治療も軍医総監として広島にいた佐藤進が呼び出され、懇意に治療を行い、李鴻章は回復すると共に治療の丁寧さから佐藤進に後々まで感謝していたようです。

 このして佐藤泰然の「佐倉順天堂」から始まった「順天堂」は、幕末の医学の歴史と共にし、明治の医学をリードし、歴史と深く関わっていったのでした。

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